2010年07月03日

葬儀について②

前夜式の日のお昼ごろ、棺が教会に運ばれてきます。私は教会に住んでおりますので(日本の教会はほとんどがこのパターン)、これからはご遺族か葬儀社さんの誰かがずっといることになります。ところで仏式の葬儀がお寺さんで行われることはほとんどありません。かつては自宅、今ではほとんどが葬儀場での開催です。これがキリスト教式では基本的にほとんどが教会での開催です。


よく仏式ではこのよう贈られてきたお花を飾りますが、キリスト教式の場合は贈ってきた人のお名前は飾りません。それがどんな著名人だとしても、です。

先日、あおい葬祭さんの式場「トワーズ」さんに伺った時、深谷さんに「会衆に背中を向けるってコト、教会ではあり得ないでしょ?」といわれました。そうです。牧師や神父は会衆に向かい合っていなければならないのです。葬儀のメッセージを語る時でも、遺族の顔をキチンとみて話すことが求められます。

葬儀が終わり、列席者と共に火葬場へ向かいます。ここでもまたお祈りを献げ、讃美歌を歌います。遺体を焼くあの瞬間は何度立ち会っても、胸が締め付けられる思いがしてとても苦しいのです。以前、ブラジル人の方の葬儀をした時のことですが、彼らは火葬という習慣がないので、その行為を受け入れられずに泣き崩れるのを見て、声をかけられなかったことがあります。

葬儀の後に初七日などの法要はキリスト教にはありません。ただ、教会において遺族との関わりはずっと続きます。時に悲しみから解放されない遺族をカウンセリングせねばならない機会も生まれてきます。

以上が、キリスト教葬儀の大体の流れです。

…と、つまり牧師が葬儀に関わるということは単にお葬式をやって幾ら、というのではなく、その前後からの時間の連続性のある「全人格的な関わり」なのです。

僕が今回のニュースを聞いて思ったのは、仏教の方々が自分たちの行為を「お経一回◎◎円」「戒名の立派なヤツ☆☆円」なんて切り売りされていることを恥ずかしいと思わないのかな?ってコトです。かつては仏教も、季節ごとの行事や法要などがあり、信者さんたちも日々お経に親しむ…つまり寺と信者さんの関係は普段から密接であり、少しずついただくお布施で僧侶は食べていた…ということでしょう。今でも心あるお寺さんは基本的にそうでしょう。

ところが、キリスト教弾圧のために檀家制度が生まれたことで、お寺は食うに困らなくなった。全ての国民がどこかの寺に所属しなければならなくなったわけですから(ちなみに離檀なんて無料で簡単にできるのですよ)。結果、彼らは人びとに仏教の教えを諭すということを真剣にしなくなった。檀家とのお付き合いは葬式の時だけ…となってしまった。そう考えると檀家制度の出来たあの日から、こうなることは必然だったということではないでしょうか。

 寺院のコンサル事業会社の社長の「布施や戒名料は、寺と檀家(だんか)の長い付き合いの中で決まっていくもので、営利企業が扱う筋合いのものではない」との言葉には「長い付き合いなんてよく言えたもんだなあ…と。

 もっとも、仏教側にも反論はあるでしょう。檀家は普段寺にお布施などしないのだから、その分こういう時に納めるべきだろうと。それはもっともかもしれません。クリスチャンは日常的に教会に献金を献げていますから、総合的にみればクリスチャンが教会に献げる額の方が多いと思います。でもクリスチャンは教会を自分たちで支えているという自覚のもとに献金しているわけですからね。それはごもっとも。でも、信仰のない人が頼むんだから「出来るだけ安くね」ともなるのでしょう。

 多くの日本人にとって死はタブーなのです。触れたくないのです。だから葬式は「ちゃっちゃと終らせたい」コトなのでしょう。だから「これぐらい払ってテキトーに済ませておけば良い」ぐらいのコトなのです。

 でももはやそんなコトで済ませてしまっていて良い時代ではないでしょう。今世の中で起きている葬儀の形態の変化は「本来人を葬るとはどういう意味なのかが根底から問われるべき出来事」なのだと考えます。安いしお手軽になっていいわよね~では、この国では「いのち」がますます軽く扱われることになるのではないでしょうか。

 当たり前のように、先祖代々の墓だから守らなきゃ、とか戒名ってこれぐらい払っとけばいいのよね…なんてコトからここらで立ち止まってみるべきでしょう。もちろんその説明責任は仏教界にあることは言うまでもありません。

 私の感想は以上です。ちなみに私が一回の葬儀でいただく額は…聞きたい方はメール下さい。実に明朗にご説明いたします。また異論・反論も歓迎いたします。

 なお、豊橋教会ではクリスチャンでない方の葬儀も可能です。関心のある方はいつでもご連絡下さい。